日本のジェンダーギャップは依然として深刻な状況にあります。世界経済フォーラム(WEF)が2024年6月に発表した「Global Gender Gap Report 2024」(グローバル・ジェンダーギャップ・レポート)によると、日本のジェンダーギャップ指数は146カ国中118位となり、前年の125位からわずかに順位を上げたものの、政治や経済分野における格差は依然として埋まらず、低迷が続いています。
この状況を踏まえ、3月8日の国際女性デーにあわせて、日本で感じるジェンダーの課題について考える機会を設けました。今回は、One Young World(OYW)のアンバサダー、岩澤直美さんと早坂シャーニィーさんと共に日本のジェンダー問題について議論。国際的な視点を交えながら、日本におけるジェンダーの現状や今後の課題について深く掘り下げていきます。
最近、日本ではジェンダーに関連する炎上が頻繁に起こっているように感じます。例えば、CMや広告の表現が「無意識の偏見を助長しているのでは?」と批判されたり、キャンペーンビジュアルが「女性像の描き方に問題がある」として炎上したりするケースも増えています。お二人は、この状況をどう見ていますか?
最近、あるうどんのCMが話題になりました。暗い部屋でアニメの少女が一人でうどんを食べるという内容でしたが、その不必要に性的な描写が気になりました。たとえ意図的でなくとも、こうした表現は非現実的な理想を押し付け、女性の過度な性的対象化につながると考えています。
そうですね。特に、男性目線で「女性にこうあってほしい」という願望がにじみ出ているのが気になりました。もしかしたら、無意識のうちに表現されているのかもしれません。
こうした問題は、今回のCMに限らず、これまでも繰り返されてきました。例えば、キャンペーンポスターに登場したキャラクターの胸部が過度に強調され、公共の場に掲示されるには不適切だと批判されたことがありました。また、観光PRポスターでも、キャラクターの衣装やポーズが問題視され、議論を呼んだケースもあります。こうした事例を見ると、社会的な影響を持つことを考えずに、不適切な表現が使用されることが多いと感じます。表現の自由は大切ですが、「これは好きな人が楽しむ分には構わないけれど、公共の場に出すことの意味を考えるべきではないか?」という視点も重要ですよね。
「法律上問題ないからOK」とされていても、公共の場で適切なのかどうかについて議論されることは少ないです。例えば、テレビのコマーシャルなどは、子供を含めて家族で食事をしている時に流れる可能性があるものです。
コンビニなどでは性的な表現が目立つ雑誌が堂々と陳列されていて、日本に住み始めた時は非常に驚きました。法律やルール以前に、社会としてどんな価値観を持つかが問われている気がします。「日本では当たり前」とされることでも、海外では問題視されるケースは多いです。
留学生と日本を歩いていたときに、公共の場に貼られたセクシャルな表現を含むポスターを見て彼らが驚いたことがあったんです。「これはパブリックな空間にふさわしいの?」と。慣れてしまっていた自分に少し恥ずかしさを覚えました。気づいたときに「なぜ自分はこれを受け入れているのだろう?」と考えることはあります。でも、それに抗うのはエネルギーが必要です。
本当にその通りです。こうしたものは広く受け入れられ、ただ「そういうものだから」と思われがちですよね。日本には過度に性的で極めて不適切なイメージが溢れていますが、それがほとんど疑問視されることはありません。例えば、女性の体を誇張して描いたり、未成年や女子学生を性的に描写することが、当たり前のように受け入れられているのは不思議なことです。
海外からきた友人に日本の携帯電話のシャッター音について質問されたことがあります。私の携帯は、日本の外に行くとシャッター音が消えるのに、日本に帰国するたびに音が戻るのです。「痴漢対策だよ」と話すと、非常に驚いた顔をされます。
日本では「見て見ぬふり」をする文化が根付いているからこそ、こうしたツールやルールに頼らざるを得ないのかなと感じると、少し悲しくなります。
オーストラリアでは、携帯電話に強制的なシャッター音はありません。オーストラリアでも性犯罪は蔓延しています。しかし、日本の痴漢や盗撮の件数はあまりにも多く、制御不能なほど深刻な状況にあるため、こうした対策を導入せざるを得なくなったのだと思います。
日本では周りが声を上げないから、自分も黙っていようという雰囲気がある。それが結局、問題を助長しているのかもしれません。
これは職場でも同じです。例えば、上司が性差別的な発言をしても、それは「なかったこと」として流されてしまうことが多いです。その発言をした本人や、目撃した人が声を上げた場合、周囲から疎外されたり、キャリアに悪影響を受けたりすることもあります。こうした環境では、女性は服装や振る舞いなどの選択肢が不必要に制限されがちです。女性が徐々に労働市場に進出しているとはいえ、まだ多くの障壁が残っています。自由に生きようとすると、「出しゃばりすぎ」「女性らしくない」と言われることも少なくありません。多くの場合、女性の声は軽視され、抑えられ、無視されてしまい、それがこの状況を固定化する要因となっています。
そもそも社会には、特定の価値観が当たり前として根付いていて、それに逆らおうとすると「攻撃している」と捉えられがちですよね。でも、これは対立ではなく、より公正な社会を目指すための変化の過程だと思うんです。
特定の価値観といえば、日本では「美しさ」のイメージが限られていて、多くの人がその枠に合わせようと努力してしまう風潮があるように思います。
オーストラリアではよく、「5秒で変えられないことなら、口にしない方がいい」と言われます。例えば、誰かの歯に食べ物が挟まっているのを指摘するのは、その人にとって助けになるかもしれません。しかし、歯並びについて批判するのは明らかに不適切です。
ファッション雑誌を見ていると、日本では狭い美の基準に当てはまるモデルが多く登場し、似たような体型や肌の色の人が選ばれがちです。日本の美の基準が変わることはとても大切だと思います。
美しさは多様性の中にあり、多様性こそが美しさです。日本の社会は日々多様性が広がっていて、それが反映され、あらゆる美しさが称賛されることが重要だと思います。
ファッション雑誌やメディアがその基準を押し付けている側面も感じます。「これが可愛い」と決められたイメージが強すぎて、違う体型やスタイルが認められにくい。私は中学生の時に、ドイツでインターナショナルスクールに通っていたのですが、その時に友人が見せてくれたファッション雑誌には、多様な肌の色や体形のモデルがいて、驚きました。友人は「このモデルは私に体形が似ていて、肌の色も近いから」とお気に入りのモデルを選んでいました。
特定の枠に合わせなければならないと常に感じていると、それが“普通”になってしまいますよね。日本の美の基準は今でも、「女性は男性にとって魅力的であるべき」という考えに基づいている部分が大きいと思います。
女性が常に評価される立場に置かれていて、人生全てがミスコンテストのようになっているように感じるときもあります。美しさだけじゃなくて、生き方そのものも評価されがちですよね。メディアに出るのも、社会的に認められるのも「社会が求める女性像」に適合した人が多い。だから、それに当てはまらないと、自分には価値がないと感じてしまう人もいる。
まさに、日本では無意識のうちに「こうあるべき」という理想像を押し付けられているケースが多いように感じます。でも、そもそも「美しさ」や「女性らしさ」って、誰かによって押し付けられるものではないと感じます。この辺りのバランスはどう考えますか?
今でも、「そんな服を着ていたからいけない」「もっと自分で身を守るべきだった」といった、女性側に責任を押し付ける考えが根強く残っています。そのため、電車で男性の隣に座るときでさえ、余計な警戒心を持たなければならないことがあります。
結局、こうした考え方は、本来守られるべき側の視点が置き去りにされているんですよね。
女性が変革を求めても、「やりすぎだ」と批判されることがよくあります。でも、私たちが求めているのはただ平等な権利と、ハラスメントを受けずに生きることなんです。
そうですね。社会には特定の立場にいる人が優遇される構造があって、それを是正しようとすると「攻撃されている」と感じる人もいる。その結果、自分を守るために沈黙を選ばざるを得ない状況が生まれてしまうのかもしれません
私は男性の承認を求めないように意識していますが、それがいつも簡単なわけではありません。特に、意思決定権を持つのが男性であることが多い職場では難しく感じることがあります。女性には「可愛らしさ」や「気配り」といった特性が求められることが多いですが、これは男性には期待されないものです。
もちろん、単純に「選ぶ」側が女性であったらいいというわけでもなさそうです。性別が同じであったとしても、その立場に着くまでに、男性社会の価値観に染まらざるをえなかった場合もあるからです。しかし、まずは数として女性の意思決定者が圧倒的に日本は少ないと思うので、数から変えていきたいと思っています。
最後に、理想像を押し付けられてしまったときに、多様性を尊重し、自分らしく生きるために、どのようにアクションをしたらいいかのアドバイスはありますか?
無力感を感じたときは、SNSでコミュニティを探してみるのも一つの方法かもしれません。同じような経験をした人とつながることで、孤独を感じにくくなることもあります。例えば最近、TikTokで #runlikeagirl というハッシュタグをよく見かけます。「女の子みたいに」という言葉は、オーストラリアでもそうですが、ネガティブな意味で使われることが多いんです。
特に印象的だった動画がありました。大人の男性や女性に「女の子みたいに走って」と言うと、わざと誇張した動きをして、からかうような走り方をしていました。でも、子どもたちに同じことを頼むと、何の迷いもなく普通に走ったんです。その動画を見て、成長するにつれて社会の偏見が私たちにどんな影響を与えているのかを改めて考えさせられました。そして、こうした偏見にもっと意識的にならなければと思いました。
私自身も、無意識に外見などで人をジャッジしてしまうことが未だにあります。しかし、そうしたときには自分のなかに「もう一人の自分」をつくり、その自分と、いまの判断をどう感じるかなど対話するのです。最初は時間がかかりますが、そのうち自分のバイアスが修正されていくのを感じます。
日本を含め、社会は今まさに変革の途中にあります。その中で、自分を守るために多少の妥協が必要になる場面もあるかもしれません。でも、あなたは一人ではありません。「なぜ私はこれをしなければならないのか?」と問い続けることが大切です。同じ考えを持つ人と一緒に考え、少しずつでも声を上げていくことで、変化を生み出す力になれるはずです
ベルギーと日本で2拠点生活を実践するエディター。早稲田大学政治経済学部卒業後、Forbes JAPAN編集部でエディター・アシスタントを経て、日本経済新聞社に入社。記者として就活やベンチャーを取材する。その後、日本経済新聞出版社(現・日経BP)に書籍編集者として出向、60冊以上のビジネス書を作る。担当した『日経文庫 SDGs入門』『お父さんが教える13歳からの金融入門』は10万部を超える。
就業中に名古屋商科大学院で経営学修士(MBA)を取得。2022年8月に退職・独立し、ベルギーに。2024年、ルーヴァン経営学院の上級修士課程を卒業。ヤングダボス会議とも呼ばれるOne Young World 2022の日本代表。2025年はメディアアドバイザー。メディアへの執筆のほか、編集業務や海外企業の日本進出支援も行っている。
日本とチェコのハーフとしてプラハに生まれ、日本・ハンガリー・ドイツで育つ。“違い”を価値にする多様性社会を目指し、高校生のときにCulmony(カルモニー)を設立。異文化への興味と理解を促進する教育プログラムや、D&I研修を、学校や企業に提供している。新渡戸文化学園評議員、One Young Worldアンバサダー、Global Shapers Community メンバーなどとしても活動。
また、講演や執筆にも力を入れている。Abema TV「Abema Prime」のレギュラーコメンテーターや、NewsPics連載などメディアでの発信も多数。東京大学大学院では博士課程に在籍し、異文化間能力の学習プログラムの開発や、学習環境デザインに関する研究を行っている。趣味はフリーダイビングとサーフィン。集めているものは世界の塩。好きなものはワインと日本酒。